【後井古墳入口にて】

思いがけず落ちてしまった古墳の世界。

前半の記事では、田布施町での古墳巡りに必要なポイントなどをお伝えしました。

後半の記事では、後井古墳を中心に、4つの古墳訪問記をお届けします。

後井古墳(ごいこふん)

竹林を割る細い参道の入り口で、その雰囲気に圧倒されてしばらく立ち尽くしてしまいました。

古墳に続くでこぼこした石の階段は、きれいに苔むしています。

竹の落ち葉というものは量が多く、石にこびりつくと取り除くことが面倒ですから、

地域の方々が維持してこられたのだろうなと、ありがたくお参りしました。

【苔むした階段】

約1400年前のものとされる後井古墳群。

全部で11基もあったと言われていますが、残っているのは、中国地方でも有数の巨石を誇る1号墳と、

そのすぐ隣の2号墳のみです。こちらの土地はなんと個人所有。

見学は自由ですが、懐中電灯が必須です。

1号墳の玄室(棺などを納めるための空間)は全長約6m、

高さ約3.5mと広々としていて、中には江戸時代に開かれたという、

かまどの神様、秋葉社の祭壇が設置されています。

大人が両腕を広げても届かないほどの巨石が、奥の壁と天井に組まれていて、圧巻です。

どうやって当時の技術でこれほどの巨石を組んだのか。

石は前日の雨を含み、ひんやりとしていて何も語りません。

懐中電灯に照らされた石の壁を見上げて、しばし呆然としてしまいました。

【玄室内の様子】

今回は田布施町文化財専門員の荒蒔さんの案内で、

すぐ隣にある2号墳も特別に見学させていただきましたが、こちらも見事な巨石が組まれていました。

かつては首長が眠っていた玄室。今やコウモリが悠久の時空にぶらさがっているのが印象的でした。

ちなみに、これほどの巨石を組んだ古墳が山口県で見られるのは珍しいそうです。

当時の日本で絶対的勢力を誇っていた大和政権やそのあとに続く政権が、

この地を重要な土地として認識していたということなのでしょう。

ただし、後井古墳の近くには集落跡地がまだ発見されていません。

これほどのモニュメントを、おそらく人生を捧げて造り上げた人たちが

どこに住んでいたのかは、今でも謎だそうです。

そういえば数日雨が降り続いたにもかかわらず、

室内の土がぬかるんでいないことに気がつきました。

荒蒔さんによると、後井古墳に限らず多くの古墳の床下には、

おそらく排水の工夫が施されているとのこと。

いかに立派に造るかだけではなく、いかに首長を長く守るか。

そのために尽くされた細かい配慮や、首長への尊い想いが、

玄室内からひしひしと伝わり、頭が下がる想いで、竹林の参道を後にしました。

【竹林の参道】

納蔵原古墳(なぐらばらこふん)

荒蒔さんが次に案内してくださったのは、納蔵原古墳です。

後井古墳の一代前の主長が眠っていたその古墳は、

竹林の後井古墳とは違って、広葉樹が覆う小高い丘の上にありました。

こちらも今から約1400年前の古墳時代後期のもので、

最大の特徴は田布施町で唯一見られる前方後円墳ということです。

前方後円墳というのは、日本発祥の独特の形で、

当時の日本を支配していた大和政権とのつながりが強い古墳であることを意味します。

玄室を覗くことは可能ですが、崩落の危険があるため注意が必要です。

後井古墳とは違って、小ぶりの石が几帳面に組まれた玄室です。

指定文化財には含まれておらず案内板などはありません。

玄室内には祭壇があることからも分かるように、地元の方が草刈りなどの手入れを含め、

大切に管理しているとのことでした。

丘の周囲は木々が覆っていて眺望は望めませんが、

古墳の世界にすっかりはまってしまった私には、眼下におそらく海が臨めたという

当時の風景を想像することができました。

なお、出土品の一部は田布施町郷土館で見ることができます。

【納蔵原古墳玄室入口にて】

国森古墳(くにもりこふん)

国森古墳は県内で一番古い古墳です。

後井古墳が大和政権の影響を受けて造られたものであるのに対し、

国森古墳は、まだ大和政権の支配が届いていない頃に造られました。

古墳づくりの厳しいルールが無かったからか、

当時この地を支配していた熊毛豪族が好んだ方法で造られたと考えられています。

この古墳は竪穴(たてあな)式で、穴を掘って一人の亡きがらを納め、

土で埋め戻す仕組みです。

昭和62年の発掘調査では、全面に朱(特殊な石を細かく砕いてつくった朱色の塗料)が

塗られた巨大な箱型の木棺が見つかりました。

同時に多くの豪華な副葬品(一緒に埋葬してあった品物)が発見されました。

その中でも注目すべきは、当時の人々を驚かせ魅了した銅鏡です。

これらの副葬品は郷土館で見ることができます。

当時としては相当な権力を集約した国森古墳

調査の後、古墳は再び埋め戻されたため、

現在は小高い丘の形状を見ることができるだけですが、

民家の庭先にこのようなドラマが眠っているとは。

改めて、知るということが目の前の景色をいかに豊かにしてくれるか、思い知らされました。



【国森古墳の墳丘を歩く】
【国森古墳から出土した銅鏡。田布施町郷土館にて】
【郷土館外観】

田布施町郷土館

田布施町で古墳巡りをする上で、

素通りできないのが郷土館です。

郷土館には、田布施町の成り立ちを分かりやすく説明する資料の他、

後井古墳、納蔵原古墳、国森古墳からの出土品も多く展示してあります。

特に印象深かったのは国森古墳から出土した銅鏡です。

当時とても貴重で絶大な人気を集めた鏡は、顔を映す道具としてだけではなく、

神様をあがめるための道具でした。

これを持つことで相当な権力の高さを示すことができたと考えられています。

 

郷土館に来ると、改めて田布施町の歴史の深さを感じることができます。

訪問時にたまたま案内をしてくださった前館長の高橋さんは、

豊富な知識で郷土愛溢れる解説をしてくださり、とても勉強になりました。ありがとうございました。

田布施町郷土館 – たぶせナビ|田布施町観光協会



柳井茶臼山古墳

【柳井茶臼山古墳】

納蔵原古墳から車で約15分のところに、柳井茶臼山古墳はあります。

郷土館の高橋さんや、発掘調査員の荒蒔さんの勧めで、足を伸ばしてみることにしました。

国の史跡に指定されている前方後円墳で、4世紀末から5世紀初めに造られたと見られています。

 

発掘調査と復元整備がされ、古墳公園として整えられた茶臼山古墳は、

これまで田布施町で見てきた古墳とは雰囲気が異なります。

全長約90mの立派なモニュメントが見晴らしの良い丘にそびえ、

墳丘を覆う小石が、わた雲に同化するように無数に並んでいました。

この古墳では、全国の古墳から出土したものの中で最も大きい青銅鏡が見つかり、

東京国立博物館に現物が所蔵されています。

また死者の世界との結界を意味すると言われる埴輪が、145基も並べられていたということから、

ここに眠っていた首長がいかに権力を持っていたかが想像できます。

併設の資料館も、一見の価値があります。

古墳を仰ぐ、昼下がりの駐車場には休憩中のサラリーマンの姿があり、

神秘的というよりはどこか平和な雰囲気を感じました。

旅の終わりに

2日に渡り、田布施町を中心に4つの古墳を巡りました。

古墳は目立つので盗掘の被害を受けやすく、また地震や風化などの被害、

そして管理する人の高齢化などの問題があり、現状を維持できないものは多くありません。

それでも田布施町に行けば、今回紹介した古墳に触れることで、

古代の神秘に触れることができます。

それは専門家はもちろん、地元の方の影ながらの努力が続いたからだと思います。

もし次に機会があればそういった地元の方々のお話も聞いてみたいと思いました。

歴史の途中では隠者の住み家となり、戦争中には防空壕の役割も果たしたという古墳。

今は過去を知る貴重な資料として、日常に溶け込んでいます。

温故知新という言葉があるように、

過去を学ぶことで私たちは視野を広げることができます。

古墳をこれからも未来に残していくために必要なのは、

私たちがその歴史を知り、おもしろいと思う気持ちです。

今回の旅の記録が、だれかの「古墳ってなんだかおもしろそう」につながると、とても嬉しいです。

この記事を書いた人・写真:

きもとなおみ:公務員を経て、インタビューライターに。自動販売機もないような広島県の山里で、3人の子育てをしています。何にでもすぐに感動してしまう子供心と、強い好奇心が特徴です。本が好き。書くのが好き。人が好き。ライターの仕事を通した出会いに敬意を持って、大好きな文章で感動をお届けします。